、滄桑の感に堪へない余りである。
「忍《しのぶ》ヶ|岡《をか》」は上野谷中の高台である。「太郎稲荷」はむかし柳河藩主立花氏の下屋敷に在つて、文化のころから流行《はや》りはじめた。屋敷の取払はれた後、社殿と其周囲の森とが浅草|光月町《くわうげつちやう》に残つてゐたが、わたくしが初めて尋ねて見た頃には、其社殿さへわづかに形《かた》ばかりの小祠になつてゐた。「大音寺前の温泉」とは普通の風呂屋ではなく、料理屋を兼ねた旅館ではないかと思はれる。其名前や何かは之を詳にしない。当時入谷には「松源《まつげん》」、根岸に「塩原《しほばら》」、根津に「紫明館《しめいくわん》」、向島に「植半《うゑはん》」、秋葉に「有馬温泉」などいふ温泉宿があつて、芸妓をつれて泊りに行くものも尠くなかつた。「今戸心中」はその発表せられたころ、世の噂によると、京町二丁目の中米楼《なかごめろう》に在つた情死を材料にしたものだと云ふ。然し中米楼は重に茶屋受の客を迎へてゐたのに、「今戸心中」の叙事には引手茶屋のことが見えてゐない。その頃裏田圃が見えて、そして刎橋のあつた娼家で、中米楼についで稍格式のあつたものは、わたくしの記憶する所
前へ
次へ
全18ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
永井 荷風 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング