幸にして「今戸心中」の篇中に委しく描き出されてゐる。即ち次の如くである。

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忍ヶ岡と太郎稲荷の森の梢には朝陽《あさひ》が際立ツて映《あた》ツて居《ゐ》る。入谷は尚ほ半分靄に包まれ、吉原田甫は一面の霜である。空には一群《ひとむれ》/\の小鳥が輪を作ツて南の方へ飛んで行き、上野の森には烏《からす》が噪ぎ始めた。大鷲《おほとり》神社の傍《そば》の田甫の白鷺が、一羽起ち二羽起ち三羽立つと、明日の酉の市の売場に新らしく掛けた小屋から二三|個《にん》の人がは見《あら》はれた。鉄漿溝は泡立ツた儘凍ツて、大音寺前の温泉の烟は風に狂ひながら流れてゐる。一声の汽笛が高く長く尻を引いて動き出した上野の一番汽車は、見る/\中に岡の裾を繞ツて、根岸に入ツたかと思ふと、天王寺の森に其煙も見えなくなツた。
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 この文を読んで、現在はセメントの新道路が松竹座の前から三ノ輪に達し、また東西には二筋の大道路が隅田川の岸から上野谷中の方面に走つてゐるさまを目撃すると、曾て三十年前に白鷺の飛んでゐたところだとは思はれない。わたくしがこの文についてこゝに註釈を試みたくなつたのも
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