音寺は昭和の今日でも、お酉様の鳥居と筋向ひになつて、もとの処に仮普請の堂を留《とゞ》めてゐるが、然し周囲の光景があまりに甚しく変つてしまつたので、これを尋ねて見ても、同じ場処ではないやうな気がする程である。明治三十年頃、わたくしが「たけくらべ」や「今戸心中」をよんで歩き廻つた時分のことを思ひ返すと、大音寺の門は現在電車通りに石の柱の立つてゐる処ではなくして、別の処に在つて其向きも亦ちがつてゐたやうである。現在の門は東向きであるが、昔は北に向ひ、道端からずつと奥深い処に在つたやうに思はれるが、然しこの記憶も今は甚だおぼろである。その頃お酉様の鳥居前へ出るには、大音寺前の辻を南に曲つて行つたやうな気がする。辻を曲ると、道の片側には小家のつゞいた屋根のうしろに吉原の病院が見え、片側は見渡すかぎり水田のつゞいた彼方に太郎稲荷の森が見えた。吉原田圃はこの処を云つたのである。裏田圃とも、また浅草田圃とも云つた。単に反歩《たんぼ》とも云つたやうである。
 吉原田圃の全景を眺めるには廓内京町《くわくないきやうまち》一二丁目の西側、お歯黒溝に接した娼楼の裏窓が最も其処《そのところ》を得てゐた。この眺望は
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