ごちやうまち》は薄暗く、土手に人力車の数の少くなつた事が際立つて目についた。明治四十三年八月の水害と、翌年《あくるとし》四月の大火とは遊里と其周囲の町の光景とを変じて、次第に今日の如き特徴なき陋巷に化せしむる階梯をつくつた。世の文学雑誌を見るも遊里を描いた小説にして、当年の傑作に匹疇すべきものは全くその跡を断つに至つた。
遊里の光景と風俗とは、明治四十二三年以後に在つては最早やその時代の作家をして創作の感興を催さしむるには適しなくなつたのである。何が故に然りと云ふや。わたくしは一葉柳浪鏡花等の作中に現れ来《きた》る人物の境遇と情緒とは、江戸浄瑠璃中のものに彷彿としてゐる事を言はねばならない。そして又、それ等の人物は作家の趣味から作り出されたものでなく、皆実在のものをモデルにしてゐた事も一言して置かねばならない。こゝに於いてわたくしは三四十年以前の東京に在つては、作者の情緒と現実の生活との間に今日では想像のできない美妙なる調和が在つた。この調和が即ち斯くの如き諸篇を成さしめた所以である事を感じるのである。
明治三十年代の吉原には江戸浄瑠璃に見るが如き叙事詩的の一面が猶実在してゐた。「
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