今戸心中」、「たけくらべ」、「註文帳」の如き諸作はこの叙事詩的の一面を捉へ来つて描写の功を成したのである。「たけくらべ」第十回の一節はわたくしの所感を証明するに足りるであらう。

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春は桜の賑ひよりかけて、なき玉菊が灯籠の頃、つゞいて秋の新仁和賀には十分間に車の飛ぶこと此通りのみにて七十五輌と数へしも、二の替りさへいつしか過ぎて、赤蜻蛉田圃に乱るれば、横堀に鶉なく頃も近《ちかづ》きぬ。朝夕の秋風身にしみ渡りて、上清《じやうせい》が店の蚊遣香懐炉灰に座をゆづり、石橋の田村やが粉挽く臼の音さびしく、角海老が時計の響きもそゞろ哀れの音を伝へるやうになれば、四季絶間なき日暮里の火の光りもあれが人を焼く烟かとうら悲しく、茶屋が裏ゆく土手下の細道に落ちかゝるやうな三味の音を仰いで聞けば、仲之町芸者が冴えたる腕に、君が情の仮寐の床にと何ならぬ一ふしあはれも深く、此時節より通ひ初《そ》むるは浮かれ浮かるゝ遊客ならで、身にしみ/″\と実のあるお方のよし、遊女《つとめ》あがりのさる人が申しき。
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 一葉が文の情調は柳浪の作中について見るも更に異る所がない。二家の作は全く其形式を異にしてゐるのであるが、其情調の叙事詩的なることは同一である。「今戸心中」第一回の数行を見よ。

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太空《そら》は一片の雲も宿《とゞ》めないが黒味渡ツて、廿四日の月は未だ上らず、霊あるが如き星のきらめきは、仰げば身も冽《しま》る程である。不夜城を誇顔の電気灯は、軒より下の物の影を往来へ投げて居れど、霜枯三月《しもがれみつき》の淋しさは免れず、大門から水道尻まで、茶屋の二階に甲走ツた声のさゞめきも聞えぬ。
明後日が初酉の十一月八日、今年は稍|温暖《あたゝか》く小袖を三枚《みツつ》重襲《かさね》る程にもないが、夜が深けては流石に初冬の寒気《さむさ》が感じられる。
少時前《いまのさき》報《う》ツたのは、角海老《かどえび》の大時計の十二時である。京町には素見客《ひやかし》の影も跡を絶ち、角町《すみちやう》には夜《よ》を警《いまし》めの鉄棒《かなぼう》の音も聞える。里の市が流して行く笛の音が長く尻を引いて、張店にも稍|雑談《はなし》の途断《とぎ》れる時分となツた。
廊下には上草履の音がさびれ、台の物の遺骸を今|室《へや》の外へ出して居る所もある。遥かの三
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