や》の店先とその親爺との描写は此作者にして初めて為し得べき名文である。わたくしは「今戸心中」が其時節を年の暮に取り、「たけくらべ」が残暑の秋を時節にして、各その創作に特別の風趣を添へてゐるのと同じく、「註文帳」の作者が篇中その事件を述ぶるに当つて雪の夜を択んだことを最も巧妙なる手段だと思つてゐる。一立斎広重の板画について、雪に埋れた日本堤や大門外の風景をよろこぶ鑑賞家は、鏡花子の筆致の之に匹如たることを認めるであらう。
鉄道馬車が廃せられて電車に替へられたのは、たしか明治三十六年である。世態人情の変化は漸く急激となつたが、然し吉原の別天地は猶旧習を保持するだけの余裕があつたものと見え、毎夜の張見世《はりみせ》は猶廃止せられず、時節が来れば桜や仁和賀《にはか》の催しも亦つゞけられてゐた。
わたくしは此年《このとし》から五六年、図らずも羇旅の人となつたが、明治四十一年の秋、重ねて来り見るに及んで、転た前度の劉郎たる思ひをなさねばならなかつた。仲《なか》の町《ちやう》にはビーヤホールが出来て、「秋信先通ず両行の灯影」といふやうな町の眺めの調和が破られ、張店《はりみせ》がなくなつて五丁町《ごちやうまち》は薄暗く、土手に人力車の数の少くなつた事が際立つて目についた。明治四十三年八月の水害と、翌年《あくるとし》四月の大火とは遊里と其周囲の町の光景とを変じて、次第に今日の如き特徴なき陋巷に化せしむる階梯をつくつた。世の文学雑誌を見るも遊里を描いた小説にして、当年の傑作に匹疇すべきものは全くその跡を断つに至つた。
遊里の光景と風俗とは、明治四十二三年以後に在つては最早やその時代の作家をして創作の感興を催さしむるには適しなくなつたのである。何が故に然りと云ふや。わたくしは一葉柳浪鏡花等の作中に現れ来《きた》る人物の境遇と情緒とは、江戸浄瑠璃中のものに彷彿としてゐる事を言はねばならない。そして又、それ等の人物は作家の趣味から作り出されたものでなく、皆実在のものをモデルにしてゐた事も一言して置かねばならない。こゝに於いてわたくしは三四十年以前の東京に在つては、作者の情緒と現実の生活との間に今日では想像のできない美妙なる調和が在つた。この調和が即ち斯くの如き諸篇を成さしめた所以である事を感じるのである。
明治三十年代の吉原には江戸浄瑠璃に見るが如き叙事詩的の一面が猶実在してゐた。「
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