階からは甲走ツた声で、喜助どん/\と床番を呼んで居る。
[#ここで字下げ終わり]

 遊里の光景と其生活とには、浄瑠璃を聴くに異らぬ一種の哀調が漲つてゐた。この哀調は、小説家が其趣味から作り出した技巧の結果ではなかつた。独り遊里のみには限らない。この哀調は過去の東京に在つては繁華な下町にも、静な山の手の町にも、折に触れ時につれて、切々として人の官覚を動す力があつた。然し歳月の過《すぐ》るに従ひ、繁激なる近世的都市の騒音と灯光とは全くこの哀調を滅してしまつたのである。生活の音調が変化したのである。わたくしは三十年前の東京には江戸時代の生活の音調と同じきものが残つてゐた。そして、その最後の余韻が吉原の遊里に於て殊に著しく聴取せられた事をこゝに語ればよいのである。
 遊里の存亡と公娼の興廃の如きはこれを論ずるに及ばない。ギリシヤ古典の芸術を尊むがために、誰か今日、時代の復古を夢見るものがあらう。
[#地から1字上げ]甲戌十二月記



底本:「日本の名随筆 別巻15 色街」作品社
   1992(平成4)年5月25日第1刷発行
   1997(平成9)年2月20日第4刷発行
底本の親本:「荷風全集 第一七巻」岩波書店
   1964(昭和39)年7月発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2009年12月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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