嘯ソ紅《べに》したる唇より白き歯を見せて微笑み候。
余は覚えず身を顫《ふる》はし申候。而も取られし手を振払ひて、逃去《のがれさ》る決断もなく、否、寧ろ進んで闇の中《うち》に陥《おちい》りたき熱望に駆られ候。
不思議なるは悪に対する趣味にて侯。何故《なにゆゑ》に禁じられたる果実は味|美《うるは》しく候ふや。禁制は甘味《かんみ》を添へ、破戒は香気を増す。谷川の流れを見給へ。岩石なければ水は激せず、良心なく、道念なければ、人は罪の冒険、悪の楽しみを見出し得ず候。
余は導かるゝ儘に闇の戸口に入り、闇の梯子段を上《のぼ》り行き候。梯子段には敷物なければ、恰も氷を踏砕《ふみくだ》くが如き物音、人気《ひとけ》なき家中《かちゆう》に響き、何処《いづこ》より湧き出《いづ》るとも知れぬ冷き湿気、死人の髪の如くに、余が襟元を撫で申候。
二階三階、遂に五階目かとも覚しき処まで上り行き候ふ時、女はかち[#「かち」に傍点]/\と鍵の音させて、戸を開き、余をその中《うち》に突き入れ候。
濃き闇は此処をも立罩《たてこ》め候ふが、女の点ずる瓦斯の灯《ひ》に、秘密の雲破れて、余の目の前には忽如として破れたる長椅
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