桙フ賑《にぎやか》さには引変《ひきか》へて、静《しづま》り行く夜《よる》の影深く四辺《あたり》を罩《こ》めたれば、身は忽然見も知らぬ街頭に迷出《まよひい》でたるが如く、朧気《おぼろげ》なる不安と、それに伴ふ好奇の念に誘はれて、行手も定めず歩み度き心地《こゝち》に相成り候。
然り、夜深《よふけ》の街の趣味は、乃《すなは》ちこの不安と懐疑と好奇の念より呼び起さるゝ神秘に有之候《これありそろ》。既に灯《ひ》を消し、戸を閉《とざ》したる商店の物陰に人|佇立《たゝず》めば、よし盗人《ぬすびと》の疑ひは起さずとも、何者の何事をなせるやとて窺ひ知らんとし、横町《よこちやう》の曲り角に制服いかめしき巡査の立つを見れば、訳もなく犯罪を連想致し候。帽子を眉深《まぶか》に、両手を衣嚢《かくし》に突込《つきこ》みて歩み行く男は、皆賭博に失敗して自殺を空想しつゝ行くものゝ如く見え、闇より出でゝ、闇の中《うち》に馳過《はせすぐ》る馬車あれば、其の中《うち》には必ず不義の恋、道ならぬ交際《まじはり》の潜めるが如き心地して、胸は訳もなく波立ち、心|頻《しきり》に焦立つ折から、遥か彼方《あなた》に、ホテルやサルーンの
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