麦酒《ビール》一杯のみて後《のち》娘はやがてわれを誘《いざな》ひ公園の人込の中をば先に立ちて歩む。その行先いづこぞと思へば今区役所の建てる通《とおり》の中ほどにて、町家《まちや》の間に立ちたる小さき寺の門なりけり。門の中《うち》に入るまで娘は絶えず身のまはりに気をくばりてゐたりしが初めて心おちつきたるさまになりてひしとわが身に寄添ひて手をとり、そのまま案内も請《こ》はず勝手口《かってぐち》を廻りて庫裡《くり》の裏手に出づ。と見れば葡萄棚ありてあたり薄暗し。娘は奥まりたる離座敷《はなれざしき》とも覚しき一間《ひとま》の障子外より押開きてづかづかと内に上《あが》り破れし襖《ふすま》より夜のもの取出《とりいだ》して煤《すす》けたる畳の上に敷きのべたり。
あまりといへば事の意外なるにわれはこの精舎《しょうじゃ》のいかなる訳ありてかかる浅間しき女の隠家《かくれが》とはなれるにや。問はまく思ふ心はありながら、また寸時も早く逃出《のがれい》でんと胸のみ轟かすほどに、やがて女はわが身を送出でて再び葡萄棚の蔭を過ぐる時|熟《みの》れる一総《ひとふさ》の取分けて低く垂れたるを見、栗鼠《りす》のやうなる声
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