じからず。一茶《いっさ》が句には
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一番の富士見ところや葡萄棚
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といふがあり。葡萄の棚より露重げに垂れ下る葡萄を見上《みあぐ》れば小暗《おぐら》き葉越しの光にその総《ふさ》の一粒一粒は切子硝子《きりこガラス》の珠《たま》にも似たるを、秋風のややともすればゆらゆらとゆり動すさま、風前の牡丹花にもまさりて危くいたましくまたやさしき限りなり。
 島崎藤村子《しまざきとうそんし》が古き美文の中《うち》にも葡萄棚のこと記せしものありしやに覚ゆ。
 今わが胸に浮出《うかびいづ》る葡萄棚の思出はかの浅間《あさま》しき浅草にぞありける。二十《はたち》の頃なりけり。どんよりと曇りて風なく、雨にもならぬ秋の一日《いちにち》、浅草|伝法院《でんぽういん》の裏手なる土塀《どべい》に添える小路《こうじ》を通り過ぎんとして忽《たちま》ちとある銘酒屋《めいしゅや》の小娘に袂《たもと》引かれつ。大きなる潰島田《つぶししまだ》に紫色の結綿《ゆいわた》かけ、まだ肩揚《かたあげ》つけし浴衣《ゆかた》の撫肩《なぜかた》ほつそりとして小づくりなれば十四、五にも見えたり。気の抜けし
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