立ててわが袖を捉へ忽ちわが背に攀《よ》ぢつ。片腕あらはに高くさしのべ力にまかせて葡萄の総を引けば、棚おそろしくゆれ動きて、虻《あぶ》あまた飛出《とびいづ》る葉越しの秋の空、薄く曇りたれば早やたそがるるかと思はれき。本堂の方《かた》に木魚《もくぎょ》叩く音いとも懶《ものう》し。
 われその頃より友人に教へられてかのモオパッサンが短篇小説読み始むるほどに、曇りし日の葡萄棚のさま、何《なに》となく彼《か》の文豪が好んでものする巴里《パリー》の好事《アワンチュール》の中《うち》にもあり気《げ》なる心地せられて遂に忘れぬ事の一つとはなりけり。怪しきかの寺なほありや否や。
[#地から2字上げ]大正七年八月



底本:「荷風随筆集(上)」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年9月16日第1刷発行
   2006(平成18)年11月6日第27刷発行
底本の親本:「荷風随筆 一〜五」岩波書店
   1981(昭和56)年11月〜1982(昭和57)年3月
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:門田裕志
校正:阿部哲也
2010年3月19日作成
青空
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