しく、暗かったが、片側の人家の灯で、大きなものを背負っている男の唖々子であることは、頤《あご》の突出たのと肩の聳《そび》えたのと、眼鏡をかけているのとで、すぐに見定められた。
「おい、君、何を背負っているんだ。」と声をかけると、唖々子は即座に口をきく事のできなかったほどうろたえた。横町《よこちょう》か路地でもあったら背負った物を置き捨てに逃げ出したかも知れない。
「君、引越しでもするのか。」
 この声の誰であるかを聞きわけて、唖々子は初めて安心したらしく、砂利の上に荷物を下したが、忽《たちまち》命令するような調子で、
「手伝いたまえ。ばかに重い。」
「何だ。」
「質屋だ。盗み出した。」
「そうか。えらい。」とわたしは手を拍《う》った。唖々子は高等学校に入ってから夙《はや》くも強酒を誇っていたが、しかしわたしともう一人島田という旧友との勧める悪事にはなかなか加担しなかった。然るにその夜突然この快挙に出でたのを見て、わたしは覚えず称揚の声を禁じ得なかったのだ。
「何の本だ。」ときくと、
「『通鑑《つがん》』だ。」と唖々子は答えた。
「『通鑑』は『綱目』だろう。」
「そうさ。『綱目』でもやっ
前へ 次へ
全12ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
永井 荷風 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング