とだ。『資治通鑑《しじつがん》』が一人でかつげると思うか。」
「たいして貸しそうもないぜ。『通鑑』も『※[#「覽」の「見」に代えて「手」、第4水準2−13−56]要《らんよう》』の方がいいのだろう。」
「これでも一晩位あそべるだろう。」
 路傍にしゃがんで休みながらこんな話をした。その頃われわれが漢籍の種別とその価格とについて少しく知る所のあったのは、わたしと倶《とも》に支那語を学んでいた島田のおかげである。ここに少しく彼について言わなければならない。島田、名は翰《かん》、自ら元章と字《あざな》していた。世に知られた宿儒|篁村《こうそん》先生の次男で、われわれとは小学校からの友である。翰は一時神童といわれていた。われわれが漢文の教科書として『文章軌範』を読んでいた頃、翰は夙《つと》に唐宋諸家の中でも殊に王荊公《おうけいこう》の文を諳《そらん》じていたが、性質|驕悍《きょうかん》にして校則を守らず、漢文の外他の学課は悉く棄てて顧《かえりみ》ないので、試業の度ごとに落第をした結果、遂に学校でも持てあまして卒業証書を授与した。強面《こわもて》に中学校を出たのは翰とわたしだけであろう。わたしの
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