灯《あかり》を出してゐるばかり。外から見た様子では、泊りの客も多くはないらしい。これに反して、水の上は荷船や運送船の数も知れず、日の暮れかゝるころには、それ等の船ごとに舷《ふなばた》で焚くコークスの焔が、かすみ渡る夕靄のあひだに、遠く近く閃き動くさま、名所絵に見る白魚舟の篝火を思起させる。
 わたくしは稲荷橋に来て、その欄干に身をよせると、おのづからむかし深川へ通つた猪牙舟《ちよきぶね》を想像し、つゞいて為永春水の小説|春暁八幡佳年《しゆんげうはちまんがね》の一節を憶ひだすのである。それは月の冴渡つた冬の夜ふけ、深川がへりの若檀那が、馴染《なじみ》の船頭に猪牙舟を漕がせ、永代橋の下をくゞる時身投の娘を救上げ、稲荷橋へ来かゝると云ふところである。春水は現代の作家の如く意識して、その小説中に河上の風景を描写したものではないが、然し対話の間に歴々として能くその情景を現してゐる事は、さすがに老練の筆と云はなくてはならない。わたくしは之を抄録したい。

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客弥三郎「ナントいゝ月夜ぢやアねへか。」
船頭兼「左様《さやう》サ歌でもおよみなせへまし。」
客「歌
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