り默つてしまつた蟋蟀は、さう云ふ晩から再び鳴きはじめて、いよ/\自分達の時節が來たと云はぬばかり、夜ごと夜ごとに其聲を強くし其調子を高めて行く。
二百十日が近くなつて、雨が多くなると、一雨ごとに蟲の聲は多くなる。ワグネルの音樂のやうに入り亂れて湧立つ如く鳴きしきる。
やがて時節は彼岸になる。十五夜の月見が年によつて彼岸の中日と同じになることもある。晝夜等分の頃が蟋蟀の合奏の最も調子が高く最も力のつよい其絶頂であらう。
山の手では人の往來《ゆきゝ》のかなり激しい道のはたにも暗くならぬ中から、下町では路地の芥箱から夜通し微妙な秋の曲が放送せられる。道端や芥箱のみではない。蟋蟀の鳴音はやがて格子戸の内、風呂場や臺所のすみ/″\からも聞えて來るやうになるのである。朝夕の寒さに蟋蟀もまた夜遊びに馴れた放蕩兒の如く、身にしむ露時雨《つゆしぐれ》のつめたさに、家の内が戀しくなるのであらう。
何といふわけもなく、いろ/\の事が胸の底から浮んで來る時節である。冬ぢかい秋の日の、どんよりと曇つたまゝ、雨にもならず風もそよがず、盡きない黄昏のやうに沈靜する晝過ほど、追憶と瞑想とに適した時はあるまい。
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