上の燈火をつけると、その火影《ほかげ》もまた昨夜《ゆうべ》とは違ひ、俄に清く澄んでゐるやうな心持がする。夏の夜とは全くちがつた官覺のしめやかさに驚かされ、何といふわけもなく火影とその周圍《まわり》の物の影とが見詰められる。わたくしがその年の秋に初めて鳴出す蟋蟀の聲をききつけるのは、大抵かういふ思ひがけない瞬間からである。
けれども、初めて聞く蟋蟀の鳴音はオシイツク/\と同じやうに、初めは直樣途切れて、そのまま翌日《あくるひ》の夜になつても聞かれないことがある。そして蟲の聲を待つ宵は三日四日と空しく過ぎて行く。夕暮はもう驚くばかり短くなつてゐる。オシイツク/\の聲は日にまし騷がしく忙《せは》しなく、あたりが全く暗くなつてしまふまで、後から後からと追ひかけるやうに鳴きつゞけてゐる。
月が出る。月の光は夕日の反映が西の空から消え去らぬ中、早くも深夜に異らぬ光を放ち、どこからともなく漂つてくる木犀の薫が、柔《やはらか》で冷い絹のやうに人の肌を撫る。このしめやかな、云ふに云はれぬ肉と心との官覺は、目にも見えず耳にも聞えないものにまで、明かに秋らしい色調を帶びさせて來る。いつぞや初音を試みたな
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