日頃は忘れてゐるボードレールやヴヱルレーヌの詩篇が身を刺すやうにはつきり思返されて來る。萎《しを》れかけた草の葉かげから聞える晝間の蟲の聲は、正しく「秋のヰヨロンのすゝり泣する調《しらべ》」であらう。
枕に就いてからも眠られぬ夜はまた更に、蟋蟀の鳴く音を、戀人のさゝやきよりも懷しくいとしく思はなければなるまい。それは眠られぬ人に向つて、いかほど啼いたからとて、身にあまる生命の切なさと悲しさとが消去るものではない。蟋蟀は啼くために生れて來たその生命《いのち》のかなしさを、唯わけも知らず歎いてゐるのだと、知れざる言葉を以て、生命《せいめい》の苦惱と悲哀とを訴へるやうに思はれるからだ。
十三夜の月は次第に缺けて闇の夜がつゞく。人は既に袷をきてゐる。雨の夜には火鉢に火をおこす者もある。もう冬である。
それまでも生き殘つてゐた蟋蟀が、いよ/\その年の最終の歌をうたひ納める時、西の方から吹きつけて來る風が木の葉をちらす。菊よりも早く石蕗《つは》の花がさき、茶の花が匂ふ………。
底本:「日本の名随筆19 虫」作品社
1984(昭和59)年5月25日第1刷発行
1997(平成9
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