《かた》に山王《さんのう》と氷川《ひかわ》の森が見えるので、冬の中《うち》西北の富士おろしが吹きつづくと、崖の竹藪や庭の樹《き》が物すごく騒ぎ立てる。窓の戸のみならず家屋を揺り動すこともある。季節と共に風の向も変って、春から夏になると、鄰近処《となりきんじょ》の家の戸や窓があけ放されるので、東南から吹いて来る風につれ、四方に湧起るラヂオの響は、朝早くから夜も初更《しょこう》に至る頃まで、わたくしの家を包囲する。これがために鐘の声は一時《ひとしきり》全く忘れられてしまったようになるが、する中《うち》に、また突然何かの拍子にわたくしを驚すのである。
 この年月《としつき》の経験で、鐘の声が最もわたくしを喜ばすのは、二、三日荒れに荒れた木枯《こがら》しが、短い冬の日のあわただしく暮れると共に、ぱったり吹きやんで、寒い夜が一層寒く、一層静になったように思われる時、つけたばかりの燈火の下《もと》に、独り夕餉《ゆうげ》の箸《はし》を取上げる途端《とたん》、コーンとはっきり最初の一撞《ひとつ》きが耳元《みみもと》にきこえてくる時である。驚いて箸を持ったまま、思わず音のする彼方《かなた》を見返ると、底
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