腐りかけた建仁寺垣《けんにんじがき》を越して、隣りの家《うち》から聞え出すはたき[#「はたき」に傍点]の音をば何というわけもなく悲しく聞きなす。お妾《めかけ》はいつでもこの時分には銭湯に行った留守のこと、彼は一人|燈火《あかり》のない座敷の置炬燵に肱枕《ひじまくら》して、折々は隙漏《すきも》る寒い川風に身顫《みぶる》いをするのである。珍々先生はこんな処にこうしていじけ[#「いじけ」に傍点]ていずとも、便利な今の世の中にはもっと暖かな、もっと明《あかる》い賑《にぎや》かな場所がいくらもある事を能《よ》く承知している。けれどもそういう明い晴やかな場所へ意気揚々と出しゃばるのは、自分なぞが先に立ってやらずとも、成功主義の物欲しい世の中には、そういう処へ出しゃばって歯の浮くような事をいいたがる連中が、あり余って困るほどある事を思返すと、先生はむしろ薄寒い妾宅の置炬燵にかじりついているのが、涙の出るほど嬉しく淋しく悲しく同時にまた何ともいえぬほど皮肉な得意を感ずるのであった。表の河岸通《かしどおり》には日暮と共に吹起る空《から》ッ風《かぜ》の音が聞え出すと、妾宅の障子はどれが動くとも知れず、ガタ
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