の座敷には薄暗い上にも更に薄暗い床《とこ》の間《ま》に、極彩色《ごくさいしき》の豊国《とよくに》の女姿が、石州流《せきしゅうりゅう》の生花《いけばな》のかげから、過ぎた時代の風俗を見せている。片隅には「命《いのち》」という字を傘《かさ》の形のように繋《つな》いだ赤い友禅《ゆうぜん》の蒲団《ふとん》をかけた置炬燵《おきごたつ》。その後《うしろ》には二枚折の屏風《びょうぶ》に、今は大方《おおかた》故人となった役者や芸人の改名披露やおさらいの摺物《すりもの》を張った中に、田之助半四郎《たのすけはんしろう》なぞの死絵《しにえ》二、三枚をも交《ま》ぜてある。彼が殊更《ことさら》に、この薄暗い妾宅をなつかしく思うのは、風鈴《ふうりん》の音《ね》凉しき夏の夕《ゆうべ》よりも、虫の音《ね》冴《さ》ゆる夜長よりも、かえって底冷《そこびえ》のする曇った冬の日の、どうやら雪にでもなりそうな暮方《くれがた》近く、この一間《ひとま》の置炬燵に猫を膝にしながら、所在《しょざい》なげに生欠伸《なまあくび》をかみしめる時であるのだ。彼は窓外《まどそと》を呼び過ぎる物売りの声と、遠い大通りに轟き渡る車の響と、厠の向うの
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