害毒を恐れざる多少の覚悟と勇気とがあって、初めて酒の徳を知り得るのである。伝聞《きくなら》く北米合衆国においては亜米利加印甸人《アメリカインデアン》に対して絶対に火酒《ウイスキー》を売る事を禁ずるは、印甸人の一度《ひとたび》酔えば忽《たちま》ち狂暴なる野獣と変ずるがためである。印甸人の神経は浅酌微酔の文明的訓練なきがためである。修養されたる感覚の快楽を知らざる原始的健全なる某帝国の社会においては、婦人の裸体画を以て直《ただち》に国民の風俗を壊乱するものと認めた。南|阿弗利加《アフリカ》の黒奴《こくど》は獣《けもの》の如く口を開いて哄笑《こうしょう》する事を知っているが、声もなく言葉にも出さぬ美しい微笑《ほほえみ》によって、いうにいわれぬ複雑な内心の感情を表白する術《じゅつ》を知らないそうである。健全なる某帝国の法律が恋愛と婦人に関する一切の芸術をポルノグラフィイと見なすのも思えば無理もない次第である――議論が思わず岐路《わきみち》へそれた――妾宅の主人たる珍々先生はかくの如くに社会の輿論《よろん》の極端にも厳格枯淡偏狭単一なるに反して、これはまた極端に、凡そ売色という一切の行動には何と
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