いて学んだ。それから父の手紙を持って岩渓裳川《いわたにしょうせん》先生の門に入り、日曜日ごとに『三体詩』の講義を聴いたのである。裳川先生はその頃文部省の官吏で市ヶ谷見附に近い四番町の裏通りに住んでおられた。玄関から縁側《えんがわ》まで古本が高く積んであったのと、床《とこ》の間《ま》に高さ二尺ばかりの孔子の坐像と、また外に二つばかり同じような木像が置かれてあった事を、わたくしは今でも忘れずにおぼえている。
わたくしは裳川先生が講詩の席で、始めて亡友|井上唖々《いのうえああ》君を知ったのである。
その頃作った漢詩や俳句の稿本は、昭和四年の秋感ずるところがあって、成人の後作ったいろいろの原稿と共に、わたくしは悉《ことごと》くこれを永代橋《えいたいばし》の上から水に投じたので、今記憶に残っているものは一つもない。
わたくしは或雑誌の記者から、わたくしの少年時代の事を問われたことがあったので、後にその事を思出してこの記を書いて見たのである。しかし過去を語るのは、覚めた後前夜の夢を尋ねて、これを人に向って説くのと同じである。
鴎外先生が『私が十四、五歳の時』という文に、「過去の生活は食って
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