垣や堀がそのまま残っていて、天主台のあった処には神社が建てられ、その傍に葭簀張《よしずばり》の休茶屋《やすみぢゃや》があって、遠眼鏡《とおめがね》を貸した。わたくしが父に伴われて行った料理茶屋は堀端に生茂った松林のかげに風雅な柴折《しおり》門を結んだ茅葺《かやぶき》の家であった。門内は一面の梅林で、既に盛りを過した梅の花は今しも紛々として散りかけている最中であった。父はわたくしが立止って顔の上に散りかかる落梅を見上げているのを顧み、いかにも満足したような面持《おももち》で、古人の句らしいものを口ずさんで聞かされたが、しかしそれは聞き取れなかった。後年に至って、わたくしは大田南畝《おおたなんぼ》がその子淑《ししゅく》を伴い御薬園の梅花を見て聯句《れんく》を作った文をよんだ時、小田原|城址《じょうし》の落梅を見たこの日の事を思出して言知れぬ興味を覚えた。
父は病院に立戻ると間もなく、その日もまだ暮れかけぬ中《うち》、急いで東京に帰られた。わたくしは既に十七歳になっていたが、その頃の中学生は今日とはちがって、日帰りの遠足より外《ほか》滅多に汽車に乗ることもないので、小田原へ来たのも無論この
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