日が始めてであった。家を離れて一人病院の一室に夢を見るのもまた始めてである。東京の家に帰ったのは梅雨《つゆ》も過ぎて庭の樹に蝉の声を聞くころであった。されば始めて逢う他郷の暮春と初夏との風景は、病後の少年に幽愁の詩趣なるものを教えずにはいなかったわけである。
 病院は町はずれの小高い岡の中腹に建てられていたので、病室の窓からも寝ながらにして、曇った日にも伊豆の山影を望み、晴れた日には大嶋の烟《けむり》をも見ることができた。庭つづきになった後方《うしろ》の丘陵は、一面の蜜柑畠《みかんばたけ》で、その先の山地に茂った松林や、竹藪の中には、終日鶯と頬白《ほおじろ》とが囀《さえず》っていた。初め一月《ひとつき》ばかりの間は、一日に二、三時間しか散歩することを許されていなかったので、わたくしはあまり町の方へは行かず、大抵この岡の上の松林を歩み、木の根に腰をかけて、箱根|双子山《ふたごやま》の頂きを往来する雲を見て時を移した。雲の往来《ゆきき》するにつれて山の色の変るのが非常に物珍しく思われたのであった。病室にごろごろしている間は、貸本屋の持って来る小説を乱読するより外に為すことはない。
 博文館
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