年試験もそのまま打捨て、父につれられて小田原の町はずれにあった足柄《あしがら》病院へ行く事になった。(東京で治療を受けていた医者は神田神保町《かんだじんぼうちょう》に暢春医院の札を出していた馬島永徳という学士であった。暢春医院の庭には池があって、夏の末には紅白の蓮の花がさいていた。その頃|市中《まちなか》の家の庭に池を見ることはさして珍しくはなかったのである。)
 わたくしは三カ月ほど外へ出たことがなかったので、人力車《じんりきしゃ》から新橋の停車場《ていしゃじょう》に降り立った時、人から病人だと思われはせぬかと、その事がむやみに気まりがわるく、汽車に乗込んでからも、帽子を眉深《まぶか》にかぶり顔を窗《まど》の方へ外向《そむ》けて、ろくろく父とも話をせずにいた。国府津《こうづ》の停車場前からはその頃既に箱根行の電車があった。(しかし駅という語はまだ用いられていなかった。)病院に着いて、二階の一室に案内せられ、院長の診察を受けたりしていると、間もなく昼飯時になった。父は病院の食物を口にしたくなかったためであろう。わたくしをつれて城内の梅園に昼飯を食べに出掛けた。その頃、小田原の城跡には石
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