った。博文館が帝国文庫という総称の下に江戸時代の稗史《はいし》小説の復刻をなし始めたのはその頃からであろう。わたくしは病床で『真書太閤記《しんしょたいこうき》』を通読し、つづいて『水滸伝《すいこでん》』、『西遊記』、『演義三国志』のような浩澣《こうかん》な冊子をよんだことを記憶している。病中でも少年の時よんだものは生涯忘れずにいるものらしい。中年以後、わたくしは、機会があったら昔に読んだものをもう一度よみ返して見ようと思いながら、今日までまだ一度もそういう機会に出遇わない。
震災の後、上海《シャンハイ》の俳優が歌舞伎座で孫悟空の狂言を演じたことがあったが、わたくしはそれを看《み》た時、はっきり原作の『西遊記』を記憶していることを知った。『太平記』の事が話頭に上ると、わたくしは今でも「落花の雪にふみまよふ片野あたりの桜狩」と、海道下りの一節を暗誦して人を驚すことが出来るが、その代り書きかけている自作の小説の人物の名を忘れたりまたは書きちがえたりすることがある。
鶯の声も既に老い、そろそろ桜がさきかけるころ、わたくしはやっと病褥《びょうじょく》を出たが、医者から転地療養の勧告を受け、学
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