ながら街上を練り行く道台《トウタイ》の行列に出遇った。また或日の夕方には、大声に泣きながら歩く女の列を先駆にした葬式の行列に出遇って、その奇異なる風俗に眼《まなこ》を見張った。張園の木《こ》の間《ま》に桂花を簪《かざし》にした支那美人が幾輛となく馬車を走らせる光景。また、古びた徐園の廻廊に懸けられた聯句《れんく》の書体。薄暗いその中庭に咲いている秋花のさびしさ。また劇場や茶館の連《つらな》った四馬路《スマル》の賑《にぎわ》い。それらを見るに及んで、異国の色彩に対する感激はますます烈しくなった。
大正二年革命の起ってより、支那人は清朝《しんちょう》二百年の風俗を改めて、われわれと同じように欧米のものを採用してしまったので、今日の上海には三十余年のむかし、わたくしが目撃したような色彩の美は、最早《もは》や街路の上には存在していないのかも知れない。
当時わたくしは若い美貌の支那人が、辮髪《べんぱつ》の先に長い総《ふさ》のついた絹糸を編み込んで、歩くたびにその総の先が繻子《しゅす》の靴の真白な踵《かかと》に触れて動くようにしているのを見て、いかにも優美|繊巧《せんこう》なる風俗だと思った。はでな織模様のある緞子《どんす》の長衣の上に、更にはでな色の幅びろい縁《ふち》を取った胴衣を襲《かさ》ね、数の多いその釦《ボタン》には象眼細工《ぞうがんざいく》でちりばめた宝石を用い、長い総のついた帯には繍取《ぬいと》りのあるさまざまの袋を下げているのを見て、わたくしは男の服装の美なる事はむしろ女に優《まさ》っているのを羨《うらやま》しく思った。
清朝の暦法はわが江戸時代と同じく陰暦を用いていた。或日父母に従って馬車を遠く郊外に馳《は》せ、柳と蘆《あし》と桑ばかり果しなくつづいている平野の唯中に龍華寺《りゅうげじ》という古刹《こさつ》をたずね、その塔の頂に登った事を思返すと、その日はたしかに旧暦の九月九日、即ち重陽《ちょうよう》の節句に当っていたのであろう。重陽の節に山に登り、菊の花または茱萸《ぐみ》の実を摘《つ》んで詩をつくることは、唐詩を学んだ日本の文人が、江戸時代から好んでなした所である。上海の市中には登るべき岡阜《こうふ》もなく、また遠望すべき山影もない。郊外の龍華寺に往《ゆ》きその塔に登って、ここに始めて雲烟《うんえん》渺々《びょうびょう》たる間に低く一連の山脈を望むことが
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