いものが見え、その岸に沿うた畦道《あぜみち》に、夫婦らしい男と女とが糸車を廻して綱をよっている。その響が虻《あぶ》のうなるように際立って耳につくばかり、あたりは寂《しん》として枯蘆のそよぐ音も聞えないのは、日も漸く傾いて、ひとしきり風の鎮る時刻になったせいであろう。赤塗の自転車に乗った電報配達人が綱を綟《よ》っている男女の姿を見て、道をきいていたが、分らないらしい様子で、それなり元きた彼方《かなた》へと走って行った。
 空はいつの間にか暮れはじめた。わたくしが電報配達人の行衛《ゆくえ》を見送るかなたに、初て荒川放水路の堤防らしい土手を望んだ時には、その辺の養魚池に臨んだ番小屋のような小家の窓には灯影《ほかげ》がさして、池の面《おも》は黄昏《たそが》れる空の光を受けて、きらきらと眩《まばゆ》く輝き、枯蘆と霜枯れの草は、かえって明くなったように思われた。ふと枯蘆の中に枯れた松の大木が二、三本立っているのが目についた。近寄って見ると、松の枯木は広い池の中に立っていて、その木陰には半ば朽廃した神社と、灌木に蔽われた築山《つきやま》がある。庭は随分ひろいようで、まだ枯れずにいる松の木立《こだち》が枯蘆の茂った彼方の空に聳えている。垣根はないが低い土手と溝《みぞ》とがあるので、道の此方《こなた》からすぐ境内へは這入《はい》れない。
 わたくしは小笹《おざさ》の茂った低い土手を廻って、漸く道を求め、古松の立っている鳥居の方へ出たが、その時冬の日は全く暮れきって、軒の傾いた禰宜《ねぎ》の家の破障子《やぶれしょうじ》に薄暗い火影《ほかげ》がさし、歩く足元はもう暗くなっていた。わたくしは朽廃した社殿の軒《のき》に辛くも「元富岡八幡宮」という文字だけを読み得たばかり。境内の碑をさぐる事も出来ず、鳥居前の曲った小道に、松風のさびしい音をききながら、もと来た一本道へと踵《きびす》を回《めぐ》らした。
 小笹と枯芒《かれすすき》の繁った道端《みちばた》に、生垣を囲《めぐら》した茅葺の農家と、近頃建てたらしい二軒つづきの平家《ひらや》の貸家があった。わたくしはこんな淋しいところに家を建てても借りる人があるか知らと、何心なく見返る途端、格子戸をあけてショオルを肩に掛けながら外へ出た女があった。女は歩きつかれたわたくしを追越して、早足に歩いて行く。
 わたくしは枯蘆の中の水たまりに宵《よい》の明星《
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