Cの多い暖な冬の夜《よ》などは、夜《よる》の水と夜の月島《つきしま》と夜の船の影とが殊更美しく見えるメトロポオル・ホテルの食堂をも忘れさせない。世界の如何《いか》なる片隅をも我家《わがや》のように楽しく談笑している外国人の中に交って、自分ばかりは唯独り心淋しく傾けるキァンチの一壜《ひとびん》に年を追うて漸く消えかかる遠い国の思出を呼び戻す事もあった。
 銀座界隈には何という事なく凡《すべ》ての新しいものと古いものとがある。一国の首都がその権勢と富貴《ふうき》とに自《おのず》から蒐集《しゅうしゅう》する凡ての物は、皆ここに陳列せられてある。われわれは新しい流行の帽子を買うためにも、遠い国から来た葡萄酒を買うためにも、無論この銀座へ来ねばならぬが、それと同時に、有楽座などで聞く事を好まない「昔」の歌をば、なりたけ「昔」らしい周囲の中《うち》に聞き味おうとすればやはりこの辺《へん》の特種な限られた場所を択ばなければならない。

 自分は折々|天下堂《てんがどう》の三階の屋根裏に上《あが》って都会の眺望を楽しんだ。山崎洋服店の裁縫師でもなく、天賞堂《てんしょうどう》の店員でもないわれわれが、銀
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