斎の沈静した空気が、時には余りに切《せつ》なく自分に対して、休まずに勉強しろ、早く立派なものを書け、むつかしい本を読めというように、心を鞭打つ如く感じさせる折には、なりたけ読みやすい本を手にして、この待合所の大きな皮張《かわばり》の椅子《いす》に腰をかけるのであった。冬には暖い火が焚《た》いてある。夜《よる》は明い燈火《ともしび》が輝いている。そしてこの広い一室の中《なか》にはあらゆる階級の男女が、時としてはその波瀾ある生涯の一端を傍観させてくれる事すらある。Henri《アンリイ》 Bordeaux《ボルドオ》 という人の或る旅行記の序文に、手荷物を停車場に預けて置いたまま、汽車の汽笛の聞える附近の宿屋に寝泊りして、毎日の食事さえも停車場内の料理屋で準《ととの》え、何時《なんどき》にても直様《すぐさま》出発し得られるような境遇に身を置きながら、一向に巴里《パリー》を離れず、かえって旅人のような心持で巴里の町々を彷徨《ほうこう》している男の話が書いてある。新橋の待合所にぼんやり腰をかけて、急《いそが》しそうな下駄の響と鋭い汽笛の声を聞いていると、いながらにして旅に出たような、自由な淋しい
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