pe.〕
人の心は旗竿より濡れて下《さが》りし
其の旗の色とてもなき襤褸《らんる》なりけり
[#ここで字下げ終わり]
と唱はれたやうに動きもせぬ、閃きもせぬ。人の心は唯々腐つて行くばかりである。
然し其等近世の詩人に取つては、悲愁苦悩は屡何物にも換へがたい一種の快感を齎す事がある。白分は梅雨の時節に於て他の時節に見られない特別の恍惚を見出す。それは絶望した心が美しい物の代りに恐しく醜いものを要求し、自分から自分の感情に復讐を企てやうとする時で、晴れた日には行く事のない場末の貧しい町や露路裏や遊廓なぞに却て散歩の足を向ける。そして雨に濡れた汚い人家の灯火《ともしび》を眺めると、何処かに酒呑の亭主に撲られて泣く女房の声や、継母《まゝはゝ》に苛《さいな》まれる孤児《みなしご》の悲鳴でも聞えはせぬかと一心に耳を聳てる。或夜非常に晩《おそ》く、自分は重たい唐傘《からかさ》を肩にして真暗な山の手の横町を帰つて来た時、捨てられた犬の子の哀れに鼻を鳴して人の後《うしろ》に尾《つ》いて来るのを見たが他分其の犬であらう。自分は家《いへ》へ這入つて寝床に就てからも夜中《よるぢゆう》遠くの方で鳴いては止み
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