、止んでは又鳴く小犬の声をば、これも夜中絶えては続く雨滴《あまだれ》の音の中に聞いた……
雨は折々降り止む。すると空は無論隙間なく曇りきつて居ながら、日が照るのかと思ふ程に明くなつて、庭中の樹木は茂りの軽重に従つて陰影の濃淡を鮮かにし、凡ての物の色が黄昏《たそがれ》の時のやうに浮き立つて来るので、感じ易い心は直様秋の黄昏に我れ知らず耽《ふ》けるやうな果しのない夢想に引き入れられる。薄曇りの空の光に日頃は黒い緑の木葉《このは》が一帯に秋の如く薄く黄ばんで了つて、庭のかなたこなたに池のやうに溜つた雨水の面は眩しいばかり澄渡り、もう大分紫の色も濃くなつた紫陽花《あぢさゐ》の反映して居るのが如何にも美しい。少しの風もないのに扇骨木《かなめ》の生垣からは赤くなつた去年の古葉が雨の雫と共に頻と落ちる。
雀の声が俄にかしましく聞え出す。するとこれが雨の晴れ間に生返る生活の音楽のプレリユウドで、此の季節に新しく聞く苗売りの長く節をつけて歌ふ声。続いて魯西亜《ロシヤ》のパン売り。其の売声《うりごゑ》を珍しさうに真似する子供の叫びが此方《こなた》から彼方《かなた》へと移つて行くので、パン売りは横町を遠
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