夏といふ快い感じを起させたが、今降りつゞく雨の日は深夜の如く沈み返つて木の葉一枚動かず、平素《ふだん》は朝から聞えるさま/″\な街の物音、物売りの声も全く杜絶えてゐる。午前《ひるまへ》の十時頃が丁度夕方のやうに薄暗い時いつもは他の物音に遮ぎられて聞えない遠い寺の時の鐘が音波の進みを目に見せるやうに響いて来る。すると、此の寺の鐘は冬の午後《ひるすぎ》に能く聞馴れた響なので、自分の胸には冬に感ずる冬の悲しみが時ならず呼起され、世の中には歓楽も色彩も何《なん》にもないやうな気がして、取返しのつかない後悔が倦怠の世界に独《ひとり》で跋扈するのである。
筆の軸は心地悪くねばつて詩集の表紙は黴びてしまつた。壁と押入から湿気《しつき》の臭が湧出し手箱の底に秘蔵した昔の恋人の手紙をば虫が蝕《く》ふ。蛞蝓《なめくぢ》の匐ふ縁側に悲しい淋しい蟇《ひき》の声が聞える暮方近く、室《へや》の障子は湿つて寒いので一枚も開けたくはないけれど、余りの薄暗さに堪兼ね縁先に出て佇んで見ると、雨の糸は高い空から庭中の樹木を蜘蛛の巣のやうに根気よく包んで居る。音も響も何《なん》にもない陰気ないやな雨である。
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