縁先なぞに向ひ合つて話をする若い女の白い顔が電灯《でんき》の光に舞ふ舞姫《バレヱ》のやうに染め出される事がある。どんより曇つた日には緑の色は却て鮮かに澄渡つて、沈思につかれた人の神経には、軟い木の葉の緑の色からは一種云ひがたい優しい音響が発するやうな心持をさせる事さへあつた。

 わが家《や》の古庭は非常に暗く狭くなつた。
 繁つた木立は其枝を蔽ふ木の葉の重さに堪へぬやうな苦し気な悩しげな様子を見せるばかりか、圧迫の苦悩は目に見えぬ空気の中に漲りはじめる。西からとも東からとも殆ど方向の定まらぬ風が突然吹き下りて突然消えると、こんもりした暗い樹木は蛇の鱗を動すやうな気味悪い波動をば俯向いた木の葉の茂りから茂りへと伝へる。折々雨が降つて来ても、庭の地面は冬のやうに直様濡れはせぬ。濡れると却て土地の熱気を吐き出すやうに一体の気候を厭に蒸暑くさせる。伸び切つた若葉の尖つた葉末から滴りもせずに留つて居る雨の雫が、曇りながらも何処か知らパツと明い空の光で宝石のやうに麗しく輝く。石に蒸す青苔にも樹の根元の雑草にも小さな花が咲いて、植込の蔭には雨を避《よ》ける蚊の群が雨の糸と同じやうに細かく動く。


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