何とも思ふ事が出来ない。唯《たゞ》非常に心持がよくて堪へられない事だけを意識するに止《とど》まつてゐる。自分は却て大なる苦痛に悩むがやうにどつさり有《あ》り合《あ》ふ長椅子に身を落し、遠く空のはづれに眼を移した。
 夕《ゆふべ》の明《あかる》い星は五ツ六ツともう燦《きらめ》き初《そ》めて居る。自分はぢつと其の美しい光を見詰めて居ると、何時か云はれぬ詩情が胸の底から湧起《わきおこ》つて来て殆ど押へ切れぬやうな気がする。肺腑《はいふ》の底から自分はこの暮れ行く地中海の海原《うなばら》に対して、声一杯に美しい歌を唄《うた》つて見たいと思つた。すると、まだ歌はぬ先から、自分の想像した歌は美しい声となつて、ゆるやかな波のうねりに連れて、遠く/\の空間に漂《たゞよ》ひ消えて行く有様が、もう目に見えるやうな気がする。
 自分は長椅子から立上り爽《さわやか》な風に面《おもて》を吹かせ、暖《あたゝか》く静かな空気を肺臓一ぱいに吸込《すひこ》み、遠くの星の殊更美しい一ツを見詰めて、さて唇を開いて声を出さうとすると、哀れ心ばかり余りに急《せ》き立つて居た為めか、自分はどう云ふ歌を唄《うた》ふのであつたか、すつかり選択する事を忘れて居た。歌謡《うた》は要らない。節ばかりでもよい。直様《すぐさま》さう思つて、自分は先づ |la, la, la《ラーラーラー》……と声を出して見たが、其れさへも、どう云ふ節で歌つてよいのか又迷つた。
 自分は非常に狼狽して、頻《しきり》に何か覚えて居る節をば記憶から捜《さが》し出さうと試みた。紫色の波は朗かな自分の声の流出《ながれで》るのを、今か/\と待つやうに動き、星の光は若い女の眼の如くじれつたさうに輝いてゐる。
 自分は漸くカワレリヤ、ルスチカナの幕開《まくあ》きに淋しい立琴《アルプ》を合方《あひかた》にして歌ふシチリヤナの一節《ひとふし》を思付《おもひつ》いた。あの節の中《うち》には南伊太利亜《みなみイタリヤ》の燃える情と、又何処となしに孤島の淋しさが含まれて居て、声を長く引く調子の其れとなく、日本人の耳には船歌とも思はれるやうな処がある。航海する今の身の上、此の歌にしくものは有るまいと、自分は非常に勇立《いさみた》つて、先づ其の第一句を試みやうとしたが、O Lola, bianca come――と云ふ文句ばかりで其の後を忘れて了つた。
 あれは、自分が
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