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星が燦《きらめ》き出した。其の光は鋭く其の形は大きくて、象徴的《しやうちようてき》な絵で見る如く正しく五つの角々《かど/\》があり得るやうに思はれる。空は澄んで暗碧《あんぺき》の色は飽くまで濃い。水は空と同じ色ながら其の境《さかひ》ははつきり[#「はつきり」に傍点]と区別されてゐる。凡《すべ》てが夜《よる》でも――月もない夜ながら――云ふに云はれず明《あかる》くて、山一つ見えない空間にも何処かに正しい秩序と調和の気が通《かよ》つて居るやうに思はれた。あゝ端麗な地中海の夜《よる》よ。自分は偶然|輪郭《りんくわく》の極めて明晰《めいせき》な古代の裸体像を思出した。クラシツク芸術の美麗を思出した。ベルサイユ庭苑《ていゑん》の一斉に刈込まれた樹木の列を思ひ出した。わが作品も此《かく》の如《ごと》くあれ。夜《よる》のやうな漠《ばく》とした憂愁の影に包まれて、色と音と薫香《くんかう》との感激をもて一糸を乱さず織りなされた錦襴《きんらん》の帷《とばり》の粛然として垂れたるが如くなれと心に念じた。
地中海に入《はい》つて確か二日目の晩である。遠く南方に陸地が見えた。北亜弗利加《きたアフリカ》のアルジエリイあたりであらう。
食事の後《のち》甲板に出ると夕凪《ゆふな》ぎの海原《うなばら》は波一つなく、その濃い紺色の水の面《おもて》は磨き上げた宝石の面《おもて》のやうに一層の光沢を帯び、欄干から下をのぞくと自分の顔までが映るかと思はれた――美しい童貞《わらべ》の顔のやうになつて映るかと思はれた。無限の大空には雲の影一ツない。昼の中《うち》は烈しい日の光で飽くまで透明であつた空の藍《あゐ》色は、薄く薔薇色を帯びてどんより[#「どんより」に傍点]と朧《おぼ》ろになつた。仏蘭西《フランス》で見ると同じやうな蒼《あを》い黄昏《たそがれ》の微光は甲板上の諸有《あらゆ》るものに、船梯子《ふなばしご》や欄干や船室の壁や種々《いろ/\》の綱なぞに優しい神秘の影を投げるので、殊に白く塗り立てた短艇《ボート》にも何か怪しい生命《いのち》が吹き込まれたやうに思はれる。
そよ吹く風は丁度|酣《たけなは》なる春の夜《よ》の如く爽《さわや》かに静《しづか》に、身も溶けるやうに暖《あたゝか》く、海上の大なる沈静が心を澄ませる。
自分の心は全く空虚《うつろ》になつた。悲しいとも、淋しいとも、嬉しいとも、
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