の妻ならば夜の窓にひそんで一挺のマンドリンを弾じつゝ、Deh, vieni alla finestra, O mio tesoro!(あはれ。窓にぞ来よ、わが君よ。モザルトのオペラドンジヤンの歌)と誘《いざな》ひ給へ。して、事|露《あらは》れなば一振《ひとふり》の刃《やいば》に血を見るばかり。情《じやう》の火花のぱつと燃えては消え失せる一刹那《いつせつな》の夢こそ乃《すなは》ち熱き此の国の人生の凡《すべ》てゞあらう。鈴のついた小鼓に、打つ手拍子踏む足拍子の音烈しく、アンダルジヤの少女《をとめ》が両手の指にカスタニエツト打鳴らし、五色《ごしき》の染色《そめいろ》きらめく裾《すそ》を蹴立てゝ乱れ舞ふ此の国特種の音楽のすさまじさ。嵐の如くいよ/\酣《たけなは》にしていよ/\急激に、聞く人見る人、目も眩《くら》み心も覆《くつがへ》る楽《がく》と舞《まひ》、忽然として止む時はさながら美しき宝石の、砕け、飛び、散つたのを見る時の心地《こゝち》に等しく、初めてあつ[#「あつ」に傍点]と疲れの吐息《といき》を漏《もら》すばかり。この国の人生はこの音楽の其の通りであらう……
 然るを船は悠然として、吾《わ》が実現すべからざる欲望には何の関係もなく、左右の舷《ふなべり》に海峡の水を蹴つて、遠く沖合に進み出た。突出《つきで》たジブラルタルの巌壁は、其の背面に落ちる折《をり》からの夕日の光で、燃える焔の中に屹立《きつりつ》してゐる。其の正面、一帯の水を隔《へだ》てたタンヂヱーの人家と低く延長したマロツクの山とは薔薇色から紫色にと変つて行つた。
 然し、徐々《おもむろ》に黄昏《たそがれ》の光の消え行く頃には其の山も其の岩も皆遠く西の方《かた》水平線の下に沈んで了ひ、食事を終つて再び甲板の欄干に身を倚《よ》せた時、自分は茫々たる大海原の水の色のみ大西洋とは驚く程|異《ちが》つた紺色を呈し、天鵞絨《びろうど》のやうに滑《なめらか》に輝いて居るのを認めるばかりであつた。
 けれども、この水の色は、山よりも川よりも湖よりも、また更に云はれぬ優しい空想を惹起《ひきおこ》す。此の水の色を見詰めて居ると、太古の文芸がこの水の漂《たゞよ》ふ岸辺から発生した歴史から、美しい女神《によしん》ベヌスが紫の波より産《うま》れ出《いで》たと伝ふ其れ等の神話までが、如何にも自然で、決して無理でないと首肯《うなづ》かれる
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