出来ねえぞ。部落の奴等は、なんとかかんとか言うげっとも、やはり、高木の旦那は腹が大きいなあ。偉い人だよ。」
伝平はそう言って、馬のことは、なんでも自分でするのだった。そして、馬主の高木は、毎日のように、その馬を見に伝平の家に廻った。伝平が家にいるときには、伝平はいつでも、馬を庭へ牽《ひ》き出して、※[#「足へん+鉋のつくり」、第3水準1−92−34]《だく》を踏まして見せては高木を欣ばして帰した。伝平がいないときには、女房のスゲノが、高木を馬小屋へ案内して、それから縁側で茶を飲まして帰すのであった。
「高木の棘《とげ》野郎にあ、全く油断も隙もねえなあ。駒馬を貸して置く代わりに、伯楽から、牝馬《だんま》を奪ってるって話でねえか。伯楽も、一年からなるのに、感付かねえのかなあ。何しろ、伯楽は、馬どなるど、眼がねえからなあ。」
部落にはまたそんな噂が立って来た。伝平は、それほど愚鈍なのではなかったが、馬のためには欺《だま》されてやる寛大な善良と狡猾を持っているのだった。併し、噂が次第に激しくなって来ると、伝平の寛大な狡猾は、寛大な善良を乗り越えて行った。
「旦那! 旦那はいるか! 談判があるから出ろ!」
伝平はどうかすると、無理に酔《よ》っ払《ぱら》って、高木の家へそんなことを言って行くことがあった。
「南部馬がなんだって言うんだえ? 糞面白くもねえ! 今日は談判があるんだぞ!」
伝平がそう怒鳴りながら門を這入って行くと、高木は座敷の障子を開けて、縁側へ出て来るのが常だった。
「談判があるど? 馬を返すって言うのか? いつだって構わねえ。今日にでも返してもらうさ。それから金の方も一緒に……」
「おっ! 旦那様! 今日はどうも少し酔っ払ってしまって……」
伝平はそう言って、すぐもう折れてしまうのだった。
「談判があるなら聞こう。」
高木はしかし睨《にら》むような眼をして言うのだった。
「談判など何もねえんでがす。ただそれ、旦那が、俺から馬を取り上げて、どこか他所《よそ》へやるっていうような噂もあるもんだから、それで酔っ払い紛れにどうも……」
「順《おとな》しい者にあ、儂だって、鬼にはなれねえぞ。併し、伯楽の方で、馬が……」
「旦那様! 旦那様の気持ちは、俺、底までわかってるから。」
伝平はそう言って、幾度も頭をさげながら、逃げるようにして帰ってしまうのであった。
*
併し、伝平は、四十を過ぎても、やはり、しがない暮らしで、自分の持ち馬というものが出来なかった。それに、体力の方も酷く落ちてしまって、すぐ疲労を感ずるようになっていた。女房のスゲノも、五人かの子供を産んで、何もかももう渇《か》れきってしまっているようであった。伝平が力にしているのは、最早《もはや》、伜《せがれ》の耕平だけであった。
「耕平! 汝《にし》あ早く立派な稼人《かせぎて》になんなくちゃいけねえぞ。俺等はもう駄目だからなあ。早く立派な馬でも飼うようになって……」
父親の伝平は、ときどきそんなことを言うのであった。
「お父《ど》う! 俺、鉄道の、砂利積みに行きてえなあ。鉄道の砂利積みに出て稼ぐど、四月《よつき》か五月《いつつき》で、馬一匹は楽に買えるから。」
耕平はそう言って、最早、青年達の中へ飛び出して行きたがっているのだった。
「それさあなあ。金は取れるかも知れねえけど、貨車の上さ立ったりして乗ってるらしいが、危ねえようだなあ。幾ら金になったって生命には換えられねえんだから、やはり、見合わせた方がよかんべぞ。」
父親の伝平はそう言って、耕平が砂利貨車で稼ぐことは、悦ばなかった。むろん、馬は欲しいのであったが、そんな風にして四十銭五十銭と持ち帰る金で馬など容易に買えるものではなく、幾度も幾度も怪我人を出していることを聞くと、伝平は、やはり、耕平を出してやる気にはなれなかった。併し、耕平は、いつの間にか、父親に隠れるようにして、砂利貨車に働いているのだった。
「お母《か》あ! お父《ど》うさに言うなよ。お父うは、馬一匹買えるだけに、金を蓄《た》めてから知らせるべし。」
耕平はそう言って、五十銭ばかりずつ賃銀を、母親のところへ運んで来た。それは、籠に水を汲み溜めようとするようなもので、穴だらけな生活の中へ消えて行ってしまうのであったが、父親も母親ももう、耕平が砂利貨車に働くことを止めようとはしなかった。そして母親は、耕平の肩に、成田山の守護札などをかけてやった。
併し、そんな風にして一ヵ月ばかりも過ぎたころ、耕平は、進行中の貨車と貨車との間に墜落して、胴体を切断された。殆ど即死であった。父親の伝平も母親のスゲノも、驚きだけが先に来て、涙も出なかった。遣《や》る瀬《せ》の無い悲しみの涙がじめじめと頬へ匐《は》い出して来たのは、耕平が死ん
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