佐左木俊郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)お父《ど》う!

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 伝平は子供の頃から馬が好きだった。
「お父《ど》う! 俺家《おらえ》でも馬一匹飼わねえが? どんなのでもいいがら。」
 伝平はそう口癖のように言うのだった。
「馬か? 濠洲産の駒馬でもなあ。早ぐ汝《にし》が稼《かせ》ぐようになって飼うさ。」父親はいつもそう言うだけであった。
「馬一匹飼って置くといいぞ。堆肥《こやし》はどっさり採れるし、物を運ぶのにも楽だし……」
「そんなごとは汝《にし》に言われねえでも知ってる。併し、馬飼うのにあ、馬小屋からして心配しなくちゃなんねえぞ。早ぐ汝でも稼ぐようになんなくちゃあ、馬など、飼われるごっちゃねえ。」
 父親は、赤爛《あかただ》れの眼を擦《こす》りながら、そんな風に言うのであった。
 併し、伝平は馬を諦めることが出来なかった。伝平は父親の眼を偸《ぬす》むようにして[#「偸《ぬす》むようにして」は底本では「倫《ぬす》むようにして」]、他家《よそ》の飼い馬の、飼料を採って来てやったり、河へその脚を冷《ひ》やしに曳いて行ってやったりするのであった。部落の人達も、植付期《うえつけどき》とか収穫期《とりいれどき》とかの、農繁期になると、子供の馬方《うまかた》で間に合うようなときには、伝平をわざわざ頼みに来た。
       *
 伝平が稼ぐようになってからも、伝平の家では、馬を飼うことなどはとても覚束《おぼつか》なかった。僅かばかりの田圃を小作しているのであったが、それだけではどうにも暮らしがつかないので、伝平はよく日傭《ひでま》に出された。そして伝平は、雀が餌を運ぶようにして、三十銭五十銭と持って帰るのであったが、その端金《はしたがね》はまるで焼け石へじゅうじゅうと水を滴らすようなものであった。
「お母《が》あ! 俺が日傭《ひでま》で取って来た銭《ぜに》だけは蓄《た》めでてけれ。馬を買うのだから。」
 伝平はそんな風に言うのだった。
「蓄めで置きてえのは山々だどもよ。ふんだが、馬を買うのにあ、三月《みつき》も四月《よつき》も、飲まず食わずに稼がなくちゃなんめえぞ。馬も欲しいが、生命《いのち》も欲しいから、なんとも仕方ねえよ。」
 母親は哀れっぽく言うのであった。伝平は仕方なく、そのまま日傭などを続けていたが、十八の歳の早春の、農閑期の間に、彼は突然いなくなってしまった。そしてそのまま半年ばかりは、どこへ行っているのか全然わからなかったが、秋になってから、初めて、硫黄山に働いていたことがわかった。併し、伝平は、それから間もなく、栗毛の馬を一匹曳いて自分の家に帰って来た。酷《ひど》く痩せていて、尻がべっこりと凹んでいるよぼよぼの、廃馬も同様の老耄《おいぼれ》馬であった。それでもしかし、父親や母親を驚かすのには、それで十分だった。
「伝平! 汝《にし》あ、馬、買って来たのか?」
 父親は赤爛《あかただ》れの眼を無理矢理に大きく押し開けながら言った。
「金持って帰《けえ》んべと思っていだども、あんまり安かったで、買って来たはあ。お父《ど》う! この馬は、こんで、何円ぐらいに見《め》えるべ?」
「それさ。併し、幾ら安くたって、生きてる馬だもの、十円か十五円は出さねえじゃ……」
「十円か十五円? 何か言ってんだか! お父う等は、馬の、値段も知らねえんだなあ。この馬だって、普通なら、五十円か六十円はするのだぞ。三十円だっていうから、俺、安いと思って買って来たのだ。」
「三十円? こんな痩馬がか?」
「何か言ってんだか! 痩馬だって、骨まで痩せてるわけじゃあるめえし、飼料《もの》せえちゃんと食わせりゃあ、今にゴムマリのようになっから見てろ。肥えてる馬なんかなら、誰が、買ってくっかえ。面白くもねえ。」
「そりゃあ、生きてる馬だから、肥《こえ》っかも知んねえが、それにしても、骨と皮ばかりでねえか? 俺なら、こんな痩馬さ、三十円は出したくねえなあ。余ってる金でもある時で、十円ぐらいなら、買うかも知れねえども。」
「伝平は、本当に、なんて無考えなことをしんだか。三十円もあったら、ふんとにどんだけ楽だかわかんねえのにさ。馬なんか買って来たって、どこさも、置くとこもねえじゃねえか?」
 母親もそう不平がましく呟《つぶや》いた。
「お母《が》あ! 銭《ぜに》なら、まだ残ってるのだぞ。」
 伝平はそう言いながら、胴巻きの中から蟇口《がまぐち》を取り出して、母親の前へぽんと投げ出した。蟇口の中には、まだ二十何円かの金が残っているのだ
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