った。父親も母親も、もう何も言わなかった。
「伝平の野郎には叶《かな》わねえ。」
父親は暫くしてから欣びに蠢《うごめ》くような低声《こごえ》で呟《つぶや》いた。
伝平は、老耄《おいぼれ》の痩馬《やせうま》を、前の柿の木に繋《つな》いで置いて、すぐ馬小屋をつくりにかかった。柿の木の下に四角な穴を掘り、近くの山林から盗伐して来た丸太を組み立てて、その周囲には厚い土塀を繞《めぐ》らしたのであった。それには父親も母親も黙々として手伝った。その掘っ立ての馬小屋は、そして、馬小屋であると同時に、そこですぐ堆肥《たいひ》をも採れるようになっていた。
伝平は急に活き活きして来た。娘から母親になった女のように、伝平は、自発的に働くようになって来た。薄暗いうちに起きて飼料を刻んだり、野良へ働きに出ても葛《くず》の葉や笹の葉を持って帰るとか、伝平は急に大人びて来た。夜なども、馬のことが気になってろくろく眠れないというような具合で、伝平は、母親がその病児を養うようにして馬の面倒《めんどう》を見ているのだった。そして、老耄《おいぼれ》の痩馬は、次第に肥り出して来た。
「好きな者には叶わねえなあ。」
部落の人達は眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》るようにしてそんなことを言うのだった。
「伝平の野郎は、なんでも、馬小屋さ寝てるって話だぞ。馬を女房にしてるんだってさあ。」
部落にはそんな噂《うわさ》まで立った。
併し、伝平の馬は、翌年の早春、腸を病んで急に死んだ。飼料の用意が十分でなかったところから、生《なま》の馬鈴薯を無暗《むやみ》と食わしたので、腹に澱粉の溜まったのが原因だった。伝平は酷《ひど》く落胆した。彼は失神の状態で、幾日も幾日もぶらぶらと、仕事を休んでいた。どうかすると、両の眼にぎらぎらと涙を溜めて、空間を凝《じ》っと視詰めているようなことがあった。
*
徴兵検査で、伝平は、輜重輸卒《しちょうゆそつ》に合格した。
「馬が好きであります。」
伝平はそう、遂《つい》、うっかりと、正直に答えたのであった。
「馬が好きか! ふうん! それはいい。併し、騎兵には少し丈《たけ》が足りないから、輸卒がいいだろう。」
伝平はそして、三ヵ月間の兵営生活を送って来たのであったが、彼はその三ヵ月の間に、馬に就いての知識をどっさりと仕入れて来た。伝平は、会う人ごとに、馬に就いての話をした。除隊の挨拶に廻りながらも、伝平は、部落中の馬小屋を、片《かた》っ端《ぱし》から覗いて歩いた。
「おおら! おおら! おおら!」
そんな風に声を掛けながら、伝平は、軽く肩のところを叩いたり、無雑作に口の中から舌を掴《つか》み出したりするのだった。
そして、それからというもの、部落の馬が、病気をしたり怪我《けが》をしたりすると、伝平は、仕事を投げ出して飛んで行くのだった。伝平はいつの間にか、幾種類かの薬品や、繃帯《ほうたい》や脱脂綿などまで持っているのであった。部落の人達も、馬で困ることがあると、すぐ伝平のところへ相談に行くようになった。伝平はすると、例えば自分の家が燃えかけているようなときでも、きっとすぐ出掛けて行くのだった。
部落では、いつの間にか彼を(伝平)とは呼ばずに(伯楽《はくらく》)と呼ぶようになっていた。伝平はそして(伯楽)と呼ばれることが限りもなく嬉しいらしかった。部落の子供達などは、伝平を、馬の医者のように信じきっているのであった。馬の爪切り刀などまで買い求めて、農閑のおりなど、部落の馬小屋を廻って爪を切ってやったりするからであった。伝平の、馬に就いての危なっかしい知識や技術は、最早《もはや》、彼の生活を幾分かは助けているのであった。
*
伝平は二十三歳で結婚した。
「俺あまだ女房なんか早え。そんなことより、まず、馬を買う算段をしなくちゃ。馬のいいのを一匹飼って、それから……」
伝平はそう言っていたのであったが、母親が眼に見えて老衰して来て、飯を炊くのにも困るようなことになったものだから、両親が否応なく押しつけてしまったのであった。
「ほう! 伯楽も、馬々って、馬をほしがっていだっけ、駒馬《こまうま》さは手が届かなかったど見《み》えで、牝馬《だんま》にしたで。」
部落の人達はそんなことを言った。
併し、いずれにもしろ、伝平はそれで落ち着いた。そして、それから間もなく、伝平は、一匹の馬を飼うことが出来るようになった。自分の所有になったのではなかったが、高利の金を貸している高木のところで、抵当流れとして取り上げた南部産の駒を、伝平のところへ預かったのであった。伝平の生活は再び活気づいて来た。
「立派な馬だなあ。こんな立派な馬を、俺家《おらえ》さ飼って置げるなんて、神様のお授けのようだなあ。粗末には
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