も私の傍《そば》にいたのであったが、貞子は峻の前に手を突いて「どうぞ宜敷《よろし》くお願いいたします」と挨拶をした。峻は真赤になって何遍も頭をさげるようにしながら「はい」と挨拶を返した。貞子は急に笑い出してしまって「あら! はい[#「はい」に傍点]だって。おかしいわ。ねえ、叔父様!」と言うのである。私と峻とは、この能弁家にすっかり弱らされた。
*
私は、妻と貞子との性格の影響で、峻の性格が少しずつ変わって行くに相違ないと思っていた。貞子は、朝の出がけには屹度《きっと》「行って参ります」と手を突いていうのであるし、帰って来ると又「ただ今帰りました」というのであるから、峻も今に屹度そんな風になりはしないかと、私は内心ひどく恐れていた。私は全くその挨拶に対する挨拶に困るのだ。妻の気転で、貞子は私には決して挨拶をしないようにしていたが、それでも、妻が外出している時などは、私はひどく平静を失うのだった。併し、よく考えて見ると、私達一家の者の性格の動向は、積極的な妻と貞子との方へ動かずに、消極的な私の性格に向けて動いているのであった。いつまで経《た》っても、峻は依然として挨拶をせず
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