プリングのように撥《は》ね上がったように思った。
私は震災の時には、二人の鮮人を救おうとしたので、もう少しで殺されるところであった。――その当時のことを詳しく書いた「恐怖の巷」は、近い中《うち》に単行本で出版されると思う。――その揚句《あげく》にはまた、私は複雑した関係から市役所を馘首《くび》になり、妻と二人で浮草のように漂泊しなければならない身となった。そして遂には、寒い真冬を目がけて北国の田舎へ行かねばならなかった。私達はその時泣いた。
田舎では、私は半労働をしながら創作を続け、妻は呪《のろ》われた自分達の運命を泣き暮らした。そして翌一九二四年の早春、私が監獄部屋を背景とした長篇と、農村を描いた中篇小説とを書き上げた頃、妻は女の子を産んだ。私達の生活はなお一入《ひとしお》苦しくなって来た。だが私達は、私がさらに五篇の戯曲と三篇の短篇小説を書き上げる間、苦しい生活の中に堪えていた。
そして私は四月の上旬に、この十篇の創作を抱いて東京に出た。どこかへ売りつけようという目論見《もくろみ》ではあったが、つい気がひけて出来なかった。
労働しながらの創作
私が作家として立
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