た。病院からも、早く書いて見たくて、本当に未だ退院の出来ないのを無理に出てしまったのだった。だが松洲先生や[#「松洲先生や」は底本では「松州先生や」]お嬢さんは、私の身体《からだ》のことを心配してくれて、読書さえも控え目にするように言ってくれた。しかし私は、矢も楯《たて》もたまらない程書いて見たくって、松洲先生やお嬢さんには隠れて、墓石の上や、草原の中で書いたりした。だが到頭見つかって、その時には自分でも、自分の身体の事を考えない野蛮的なのに顔を紅《あか》くした。それから暫《しばら》く書くのを罷《や》めていたが、やっぱり書かずにはどうしてもいられないような気がしたので、わざわざ山の中に隠れては書いて来た。
 十月になって私は鎌倉へ越して行った――みんなは東京へ引き上げたから。私はここでも創作をすることを許されなかった。二カ月もいるうちに、二篇の短篇、五十枚ばかりきり書けなかった。毎日海岸に出ては、すっかりメランコリイになって泣いてばかりいた。そしてセンチメンタルな詩ばかり作っていた。
 私は到頭郷里に帰って行くことにした。病弱な身体で寒い北国に行くことは、みんなから反対を受けた。だが私
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