い気の付きようだった。
藤沢は二夏を雄吾の母とその事務所で暮らしたのであったが、初雪が来て、その年もいよいよ札幌へ引き上げるとなると、彼は彼女を伴れて帰って行ったのだった。――それから後の噂は、藤沢は最近に妻を亡《な》くし、ちょうど子供が無かったので、彼女を後妻に入れたのだと伝えた。
雄吾はその翌年の夏から作男の仲間に投げ込まれた。そして、藤沢の活溌な行動は加速度をもって進んだ。小作料の取り立ては厳しく実行された。貸し付けてあった開墾中の費用の取り立てにも彼は決して手を緩めなかった。どこの移住開墾者よりも貧しい一団の移住開墾者等は、暗い陰惨な日々の中で、子供が殖《ふ》えるばかりだった。
その頃、開墾地には美しい娘が三人いた。お糸。おせん。千代枝。その三人は次から次と五年の間にいずれも同じようにして札幌へ伴《つ》れて行かれた。――最初、彼女達は畑から事務所へと、炊事婦に傭われて行った。給金が頗《すこぶ》るよかった。彼女一人の働きによって、その一家は十分に潤《うるお》された。事務所で食べさせてもらった上に、小作料と、借りた開墾費用を払っても、彼女の給金はなおいくらか残るのだった。だからその貧しい親達は、娘が可哀想だとは思いながらも、表面には不服な顔を見せなかった。――併し、彼女達を目の前に愛することによって、その開墾地の生活に明るい華やかな生甲斐《いきがい》を見出していた若者達は、それでは鎮《しずま》らなかった。彼等は開墾地を飛び出して行った。そして、お糸の相手だった耕吉は、浦幌の近くの小さな駅の駅夫をしている。おせんの相手の平六は池田へ行って馬車曳きになっている。佐平等が、自分達は食うや食わずに働いているのに収穫はみんな持って行かれると考えるように、若者達は、美しいものはみんな持って行かれて醜《みにく》いもの穢《きたな》いものばかりが残ると考えたのだった。
*
「意気地の無《ね》え野郎共さ。耕吉も平六も。あいつらに貴様ほどの度胸があったら、今頃はみんながこんな難儀をしなくて済んだのに……」
佐平爺は悠長に煙草を燻《くゆ》らしながら語り続けた。
「貴様はやはり、雄吾、親父に似ているんだなあ。その度胸のいいところは……」
「度胸じゃねえ。俺《おら》、我慢が出来ねえのだ。」
こう言って雄吾は、焚き火に屈《かが》み込んで枯れ枝を重ね直した。白い煙があがった。深い天井からばらばらと落ち葉がして来た。風が出て来たのだ。
「うむ、うむ。だからやるのさ。一ぺんで、親父の仇《かたき》を取って、開墾場の人達みんなを助けて、その上自分の恨みを晴らせるのだもの……」
「あ、やってやるとも!」
雄吾はそう言って膝の上の猟銃を撫でた。
「その上、貴様、母親《おふくろ》とも一緒に暮らせるようになるじゃねえか。なあ、そうだろう?」
「あんな、人でなしの母親なんか、どうでもいい。」
「いや! しかしな、貴様からお母さんに話して、この開墾した土地を、我々の所有《もの》にしてもらわねえと困るからな。そこを頼むわけなのさ。」
「併し、世の中ってそう調子よく行くものかなあ。俺《おら》、やっつけたら、自分も死ぬ覚悟なのだ。」
「だからさ、馬車に乗っている者を撃っちゃ、熊だとは言われめえってことさ。いいか。そこをよく考えて見ねばならねえんだ。」
落ち葉がまたばらばらと散った。白い煙が横に漂《ただよ》うた。風が勢いを得て来たのだ。そして原始林の中には静かに夕闇が迫って来ていた。
*
開墾地にはその年も、そろそろ熊の出て来る初冬が近付いていた。
闇夜《やみよ》だった。まだ宵《よい》の口だ。開墾地に散在している移住者の、木造の小屋からは、皆一様に夜業《よなべ》の淡い灯火《あかり》の余光が洩れていた。十何年を経ても、彼等は最初の仮小屋の中に夜業を続けなければならなかった。十何年前に変わらない雨ざれた小屋は、壁板が割れて風が飛び込み雪が吹き込んだ。屋根は腐って雨が漏るのだった。併し彼等は、最初の夢を裏切られた未来の光のないところで、希望を持たない陰惨な生活を送らなければならないのだった。
原始林を背景にして散在した移住者の小屋から、事務所はやや離れたところにあった。納屋《なや》と馬小屋と、作男達の寝る建物とが、その横に黒く並んでいた。事務所からは明るい灯火《あかり》が洩れていた。間もなく札幌へ伴れて行かれる筈の、おきんが裁縫をしているのだった。
事務所の灯火が消えた。おきんも寝たのだ。
「熊だあ! 熊だあ!」
若い声が突然叫んだ。暗がりに人影が動いた。
「熊だあ! 馬小屋を気を付けろ!」
移住者の小屋から炬火《たいまつ》が出て来た。足音が乱れ合った。犬が吠え出した。
「熊だあ! 熊だあ!」
石油鑵が鳴り出した。板木《はんぎ》を敲
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