熊の出る開墾地
佐左木俊郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)無蓋《むがい》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)足|許《もと》に立てた

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)斎※[#「土へん+敦」、第3水準1−15−63]樹《ちさのき》
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 無蓋《むがい》の二輪馬車は、初老の紳士と若い女とを乗せて、高原地帯の開墾場《かいこんじょう》から奥暗い原始林の中へ消えて行った。開墾地一帯の地主、狼のような痩躯《そうく》の藤沢が、開墾場一番の器量よしである千代枝を伴《つ》れて、札幌の方へ帰って行くのだった。
 落葉松林が尽きると、路はもはや落ち葉に埋められて地肌を見せなかった。両側には山毛欅《やまぶな》、いたやかえで、斎※[#「土へん+敦」、第3水準1−15−63]樹《ちさのき》、おおなら、大葉柏などの落葉喬木類が密生していた。馬車はぼこぼこと落ち葉の上を駛《はし》った。その上から黄色の葉が、ぱらぱらと午後の陽に輝きながら散りかかった。渋色の樹肌《きはだ》には真っ赤な蔦紅葉《つたもみじ》が絡んでいた。そして傾斜地を埋めた青黒い椴松《とどまつ》林の、白骨のように雨ざらされた枯《か》れ梢《こずえ》が、雑木林の黄や紅《あか》の葉間《はあい》に見え隠れするのだった。
「ほいや! しっ!」
 馭者《ぎょしゃ》が馬を追うごとに、馬車はぎしぎしと鳴《な》り軋《きし》めきながら、落ち葉の波の上を、沈んでは転がり浮かんでは転がって行った。
 落葉松林の中の下叢《したくさ》の陰に、一時間も前から息を殺して馬車の近付くのを待っていた若い農夫が、馭者の馬を追う声で起ち上がった。そして猟銃を構えながら、山毛欅の大木に身体を隠して路の方を窺《うかが》った。初老の紳士は、洋服の腕を若い女の背後に廻して、優しく何かを語りかけていた。若い女は軽い微笑の顔で、静かに頷《うなず》くのだった。若い農夫は、一時に全身の血の湧き上がって来るのを感じた。
 若い農夫は樹の陰から、五匁玉《ごもんめだま》を罩《こ》めた銃口《つつさき》を馬車の上に向けた。彼の心臓は絶え間なく激しい動悸《どうき》を続けていた。そして、狙いを定めているうちに、馬車はごとりと揺れ、ぎしぎしと軋《きし》めきながら方向を更《か》えた。同時に密茂した樹木が車体を隠した。――一面の落ち葉で、どこが路なのか判然とはわからないのだった。馭者は樹と樹との間が遠く、熊笹のないところを選んでは馬首を更えた。その度ごとに偶然にも、馬車は急転して銃口から遁《のが》れるのだった。遁れては隠れ、遁れては樹の陰に隠れるのだった。
 幾度も同じような失敗を繰り返しながら、若い農夫は猟銃を構えて、馬車の上を狙いながらその後を追いかけた。馬車は、午後の陽に輝きながら散る紅や黄の落ち葉をあびながら、ごとごとと樹の間を縫って行った。青年は兎のように、ひらりひらりと、大木の陰に移りとまっては、そこから馬車の上に銃口《つつさき》を差し向けるのだった。
 突然、山時雨《やましぐれ》が襲って来た。深林の底は急に薄暗くなった。馬車の上の人達はあわてて傘を翳《かざ》した。時雨は忍びやかに原始林の上を渡り過ぎて行った。自然の幽寂な音楽が遠退《とおの》くにつれて、深林の底は再び明るくなった。紺碧の高い空から陽《ひ》が斜めに射し込んだ。明るい陽縞《ひじま》の中に、もやもやと水蒸気が縺《もつ》れた。落ち葉の海が、ぎらぎらと輝き出した。
 最早《もはや》、路は原始林の一里半の幅を尽くして、鉄道の通る村里へ近付いていた。機会はここから急転する。若い農夫は鉄砲を提《さ》げて、熊笹の中を馬車の先へと駈け出した。そして、樹陰《こかげ》から路の上に狙いを据えて馬車を待った。
「ほおら! しっ!」
 馭者が馬を追う声がして、ぎしぎしと車体の軋《きし》めく音が近付いて来た。間もなく樹の陰から馬の首が出て、胴が見当の上を右から左へと移動した。若い農夫は激しく動悸する胸で、猟銃にしがみつくようにして引き金に指をかけた。約三十秒! とそこへ、左から右へ人影が現れた。アイヌであった。
 若い農夫は驚異の眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》り、ほっと溜め息を吐くようにして、猟銃を自分の足|許《もと》に立てた。アイヌはそこに立ち止まって、若い農夫の見当を遮ったまま、珍しい馬車での通行者を、いつまでも見送っていた。機会は、馬車と共に原始林から村里へと駛《はし》って行った。
       *
 雄吾は猟銃を右手に引っ掴んで、がさがさと熊笹薮の中を戻った。頭だけが興奮していて、脚にはほとんど感覚も力も無いような気がした。どうかする
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