と、重心をさえ失いかけた。そして、ひどく咽喉《のど》が渇いていた。雄吾は無意識のうちに、開墾地帯に近い原始林の中を流れている谷川の方へ歩みをむけていた。彼は、きょときょとと四辺《あたり》を見廻しながら、緩《ゆっく》り歩いたり、急に駈け出したり、滅茶苦茶だった。
機会を取り遁《に》がしてしまったことは、極度の嫉妬《しっと》に燃え、復讐心に駆られていた雄吾にとって、前歯で噛み潰《つぶ》したいような経験だった。残念で、口惜しくて堪《たま》らなかった。がしかし、あのアイヌが、自分の将来を、自分の無謀な計画の中から救い出してくれたようにも思われた。けれども、雄吾の復讐心の火は消されはしなかった。彼はさらに、最も賢いところの悪辣《あくらつ》な手段を考え出そうと努めるのだった。
浦幌《うらほろ》川に流れ込むその清水の谷川の畔《ほとり》には、半分腐れかけた幾本もの大木が倒れていた。雄吾はそれらの大木を跨《また》ぐのが面倒なので、猟銃を杖にして木から木へと伝い歩いた。そして、河原へ飛びおり、がぶがぶと水を呑んだ。
「雄吾!」
彼はびっくりして顔を上げた。彼は濡れた唇を掌《てのひら》で拭いながら、四辺《あたり》に驚きの眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》った。
「どこへ行って来た? 顔色をかえて、鉄砲など持って……」
同じ開墾場の佐平爺が、向こう岸に微笑んでいた。
「熊が出てね。俺《おら》、皮がほしかったもんだから、追っかけて見たのだげっとも……」
「熊だと? 牝兎じゃねえのか?」
佐平爺は微笑みながらそう言って、魚籃《びく》を提げて川を漕いで来た。
「まあ、なんにしろ、あまり無鉄砲なごとをして、自分の身を亡《ほろ》ぼすようなことをするなよ。貴様の気持ちも判るが……」
「本当に、熊だってばな!」
雄吾は佐平爺の慰めるような言葉で、涙含《なみだぐ》ましい気持ちに支配されながら、それに反抗するように言った。
「俺に嘘《うそ》を言わなくてもいい。――嘘をついたって、決して悪いとは限らねえさ。併し、将来《さき》の見透せねえ嘘じゃいけねえんだよ。俺は、村中きっての嘘つきだって言われるが、将来の見透せねえ嘘をついたことはねえだ。将来の見透せねえ人間がまた碌《ろく》な嘘をつけるもんでもねえし。――だがさ、熊にしろ牝兎にしろ、馬車に乗って行くわけねえがらな。」
雄吾は、佐平爺の顔を視詰《みつ》めていた眼を、静かに伏せた。同時に顔色が真っ蒼になった。
「何も心配するごとねえ。それだけの度胸と覚悟があるのなら、もっと考えてやるのさ。――貴様は、自分の親父が殺された時の、本当のことを知らねえで、村の作り事ばかり信じてるから、自分の恨みせえ晴らせばいいと思っていんだべが……」
「作り事って、何が裏にあったんだろうか?」
雄吾は再び佐平爺の顔を視詰めた。――嘘つき佐平、で有名な佐平爺は、嘘をつくときには、いつも口尻を曲《ま》げるのが癖だった。併し、その口尻の曲がりは、より話に真実性を持たせるのだった。だが、今日は、口尻を曲げずに佐平爺は言うのだった。
「併し、それにあ、開墾場の最初から話さねば判らねえから……まあ、火でも焚いてあたりながら……馬鹿に寒くなって来たから……」
雄吾は倒れている大木に猟銃を立て掛けて、時雨《しぐれ》に濡れた落ち葉の間に、枯れ枝を探し歩いた。
*
雄吾の父親、岡本|吾亮《ごすけ》がしばらくぶりで自分の郷里に帰って来た。東京で一緒になったという若い綺麗な細君と幼い伜《せがれ》の雄吾を伴《つ》れて。――東京から札幌へ行き、そこで小さな新聞社の記者のようなことをしたり、時には詩なども作ったりしていた彼等の服装や生活は、ひどく派手《はで》なものとして村の百姓達の反感を買ったのだった。
「あんな身装《みなり》して、どこで何していたんだべや? 喧嘩好きで腕節《うでっぷし》の強い奴だったから、碌《ろく》なごとしてたんで無かんべで。」
併しその悪口は、四苦八苦の生活に喘《あえ》いでいる百姓達の、羨望《せんぼう》の言葉だった。
露国との戦争が済んでから間もない頃で、日本の農村は一般に疲弊《ひへい》していた。彼等の村はことにひどいようだった。――稼人《かせぎて》を戦争へ引っ張られた農家の人達は、それまで持っていた土地を完全に耕しきることが出来なかったので、彼等は自分の持ち地にかえって重荷を感じた。のみならず、彼等はどんどん現金の要る時なのに、その収入の道がなかったので、一時土地を抵当に入れて金を借りることを考えた。稼人のない間を金に換えて置いて、稼人が帰って来たら再び自分の手許《てもと》に買い戻す。こんなうまい事はない。彼等は僅かの金で土地を手放した。――併し、いよいよ戦争が済んで稼人が帰って来ても、彼等は再び
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