から一番遠い地点にある吾亮の家には、知らせずにおく筈だったのだが、いつの間にか嗅ぎつけて妻が出て来た。伜《せがれ》の雄吾はその頃、敏感な少年期に達していたのだが、そこへは駈け出して来なかった。沈着な彼の母が、その場を見せないために、近所へ預けたのだった。そして吾亮の妻は、人々の背後の薄暗がりで、静かに泣いていた。
「東京からここまで来て、こんなことになるなんて……私達はこの先どうしたらいいんですか……子供だってまだ働けやしないのに……」
 こう言って雄吾の母は啜《すす》り泣くのだった。
「岡本の奥さん。その方の心配はしないで下さい。私に責任があるんですから。その方の心配はしないで下さい。私が責任を負うんですから。」
 併し彼女の心が、そんなことで穏やかになる筈がなかった。穏和な情緒を滅茶苦茶に掻き立てられた彼女は、何もかも掻《か》き※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》りたい興奮状態にあった。彼女はなおも泣き続けた。
 巡査が来た時には夜が闌《ふ》けていた。焚き火の傍《そば》に立って巡査は藤沢を訊問した。藤沢は、佐平に言ったと同じ理由を述べた。
「それでこの人は、おまえとは、おまえの外套を無断で借り着して行くような間柄だったのか?」
「はい。それは、十何年前からの友達で。」
「すると、全然、過失というわけだな?」
「でも、私は、罰を受けないと気が済みません。」
 こういう言葉が交わきれている間に、佐平は、啜り泣いている吾亮の妻の方へ歩み寄った。
「家を出るとき、あの毛皮を着てたかね?」
 低声《こごえ》にそう言って佐平は訊いてみた。
「今日は、朝出たきりでしたので……」
 彼女は少しも藤沢を疑わなかった。彼の表面をそのまま受け取っているのだった。佐平は巡査のところへ引き返した。
「何《なん》にせ、熊だか人間だか、見分けのつかねえほど、まだ暗くなかったがな。」
 佐平はこう彼等の会話の中に言葉を挿んだ。
「おい! おまえは黙っていろ。今ここで、いいかげんな嘘をつかれちゃ困るじゃないか。」
 巡査は佐平の方に眼を光らせて言った。
「いや、いや、すっかり暗くなってからで……」
「宜し。じゃ、とにかく、今夜のうちに駐在所まで来て、本署まで一緒に行ってもらわねばならんな。この外套《がいとう》を背負《しょ》って。」
「旦那様、私を証人に連れて行ってくだせえ。」
 佐平はこう言って滅多《めった》に下げたことの無い頭を下げて頼んだ。自分の見透している藤沢の秘密な計畫を、みんな話してやる積《つ》もりだった。
「証人だと? おまえを証人に立てたら、どんな嘘を言うかわからんじゃないか。嘘つきの名人を、証人に立てるわけにはいかんな。」
「じゃ誰か他の人でも……」
「自首して出た者に証人がいるか。そんなことは後のことだ。――さあ、じゃ、その毛皮を背負って。」
 巡査は藤沢を促してそこを立ち去った。
       *
 藤沢の罪科は過失致死罪だった。罰金刑で済んだ。そして吾亮の遺族である雄吾とその母とは藤沢の許《もと》に引き取られた。
「いいえ、そうまでして頂かなくも、私は東京へ帰ります。東京へ帰ったら、なんとかして食べて行けないことは無いでしょうから。」
 こう吾亮の妻は言った。併し藤沢は、その以前から五六人の作男を使って自分も耕作をやっていたので、その人達のための炊事をしたり、自分の身辺の世話をしてくれる婦人を必要としていた。今までは開墾小屋から、百姓女が通って来てくれていたが、吾亮の妻にその役をしてほしいと言うのだった。
「そうでもしてもらわないと、私も気が済みませんからね。給金は、今までの倍にしますわ。」
 藤沢が無理にそう言うので、雄吾を伴れて彼の母は、開墾小屋から事務所に移って行った。同時に藤沢は札幌へ引き上げて行った。彼女は啜り泣きの日の多い侘《わび》しい冬を送った。
 翌年の春。藤沢は例年よりも早く開墾地に出て来た。そしてその夏中を、雄吾の母は、藤沢と一緒に事務所で寝起きをしなければならなかった。もちろん雄吾も一緒ではあったが、五六人の作男は、以前から他の建物に寝起きをしているのだった。
 藤沢は、その年はどういうものか、ひどく躁《はしゃ》いでいた。何事にも活溌だった。秋になると、貸し付けてあった食糧費をぴしぴしと取り立てた。そして、今年からはいよいよ小作料をも取り立てると提言して、それの実行に取り掛かった。
「小作料をね? この土地は、開墾すれば頂戴できる筈じゃなかったんですかね。」
 佐平はこう呆《あき》れた者の調子で言った。
「冗談じゃねえ。この土地だって資本金《もとで》が掛かってんですぜ。」
「じゃ、道庁から直接もらって開墾するんだったな。今頃は自分のものになってたのに……」
 こう佐平は言って見たが、それは既に遅
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