を、どんなに慰《なぐさ》めることでしょう。長い間を雪に埋もれて、郷里《ふるさと》を憧《あこが》れ、春の陽光《ひかり》を待ちわびている孤独な人達が、そろそろ雪が消えて、斑《まば》らに地肌《ぢはだ》が見えかけて来た時、雪間《ゆきま》がくれに福寿草の咲いているのを見たら、どんなによろこぶことでしょう。そしてはまた、郷里《ふるさと》を想い、自分達の活動を想い、淋しい生活を振り返って、感慨無量《かんがいむりょう》の涙にくれるに相違ないのです。
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福寿草は、孤独な人々の心をよく知ってくれます。そして慰めてくれます。もうよぼよぼになったお爺さんが、長い白い髭《ひげ》を垂れて日当たりのいい南の廊下で、暖かい陽光《ひかり》を浴びて咲き輝いている鉢植えの福寿草を前に、老眼鏡をかけて新聞を読んでいるのや、北海道辺の新開地の農夫が、木の根の燻《い》ぶる炉《ろ》ばたで、罐詰の空罐に植えた福寿草を、節くれだった黒い手でいじっているのなどは、いい調和です。それは、その人々も淋しければ福寿草も淋しいからです。そして、その人々も光を憧《あこが》れ、春の訪れを待ちわびていれば、福寿草も太陽の燦爛《さんらん》と輝くのを待ち焦《こ》がれているからです。
梅
梅の花はなんとなく先駆者《せんくしゃ》という感じです。寒さをおそれず、肌を刺すような北風の中で弾《はじ》けるだけに、なんとはなしに草木の先駆者というような気がします。梅の花の一輪二輪と綻《ほころ》びるころの朝夕は、空気がまだ本当に冷えびえとしていて、路傍《ろぼう》には白刃《しらは》のような霜柱が立ち並び、水溜まりには薄い氷がはっています。私達は冬の長い習慣で、襟《えり》の中にすくんでいる首を、無理に伸ばすようにして、ふところ手のまま見上げるのです。本当に、ふところ手のまま、一輪二輸と綻《ほころ》びかけたのを見上げるのです。
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梅の花は落ち着いています。本当に沈着《ちんちゃく》な花です。思い切って、一度にぱっと開くことの出来ない花です。梅の花の妙味《みょうみ》はそこにあるのだと思います。あの、早春の鉛色《なまりいろ》の空を背景にして、節《ふし》くれだった、そしてひねくれ曲がった枝に、一輪二輪と綻《ほころ》び初《そ》めるところは、清新《フレッシュ》な、本当になんとも言われない妙味のあるものです。そして又、
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