いて書いたが、まったくもうあの鶴枝ほどの蛸入道は見られない。すててこの合方早目に桃色の手拭い深く面体包んだ鶴枝の蛸は、それこそほんとうの「蛸」そのものになりきっていた。かなしや泥棒になってしまった今の鶴枝も小まんという人も、やはり一番おしまいに蛸はやるけれど、ははあいま[#「ははあいま」に傍点]の鶴枝が、小まんが今ああして蛸の真似をやっているなと感じられるばかりである。ところがそこへゆくと先代鶴枝の場合は、演じている人自身の存在なんかたちまち芋畑の芋の葉かげへスッポリコと隠れてしまい、ただもうそこには大きな蛸の跳躍ばかりが、乱舞ばかりが、いと華やかに、いとおおどかに展開されているのだった。今にして特技といわずにはいられない所以である。
 この頃神戸にいる知人から先代鶴枝についてはこんな手紙を寄せてきた。ただし、私は永らく大阪にいながら文中の「部屋見舞」とかいう菓子細工はついに知らないのであるが、たしかに先代鶴枝の技巧的な美しさとは一脈相通ずるもののあるような心もちがしてならない。
 曰く
「鶴枝の百面相は猫八の孤憤、日本太郎の咆哮以上なつかしいもの。お嫁をもらうゆえ、箪笥《たんす》をゆ
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